『深闇のセレファイス』について。
その概要を思い浮かべるのと結末を思うのはほぼ同じです。
スチームパンクシリーズのバッドエンド集合体が『灰燼のカルシェール』とすれば、
セレファイスは黙示の果て(エイジ・オブ・アポカリプス)に他なりません。
この結末は自明のものです。
《真・大数式》は起動し、セレファイスにおける地球とカダスは消え去ります。
動く者のいなくなった第一大機関塔最上階にて。
ローゼンクロイツ師とジャンヌは互いに寄り添い、
地平線の果てから惑星ごと呑み込んで迫る消却光を見つめながら
最後の《子》に想いを馳せて──
これは、その数分前から始まる、物語の断片です。
深闇のセレファイス 〜What a beautiful apocalypsis〜
──混沌だった。
赫色と蒼色が交錯する混沌の戦場。神聖都市ローマに建造された第一大機関塔(メガエンジン・タワー)の最上階で、ふたつの勢力は刃を交えることとなった。
多くの人間が死んでいた。
《結社》の魔人たちは恐るべき力で僕ら《希望の砦》正規メンバーを屠っていったから。それでも、メンバーもただ殺されるだけではない。既に、魔人アステアと魔人コーネリアの両名は斃してみせた。代わりにこちらも半数を失ったけれど。
残ったメンバーは精鋭だ。《結社》の操る超常の機関兵器(エンジン・アーム)、たとえば《機怪》にも後れを取らない。それでも、あまりに《結社》の頂点に君臨する者どもは強力に過ぎた。
魔人ゲオルギウスの放つ現象数式(クラッキングエフェクト)は空間固定の術式や式増幅用の碩学機関ごとメンバーの数名を消し炭に変える。ケルカンさんの冷気が放たれていなければ、僕らは二十秒前に全滅していただろう。
何よりも、あの男──マギ──レオナルド・ダ・ヴィンチは、別格に過ぎた。
行く手を阻む《機怪》の群れをくぐり抜けて接敵を果たしたメンバーがことごとく砕かれていく。文字通りに。奴の左手を向けられたメンバーは、幾つかの構成要素へと還元されて、かたちを失って消失していく。
それでも、僕らは諦めなかった。
彼が、僕ら《希望の砦》を率いるクリスチャン・ローゼンクロイツの存在が僕らの最後の希望だった。
赫色と蒼色がぶつかり合い、互いを砕き続ける戦いの果てに、ローゼンクロイツ師はマギと相対した。
師の身に付けた大いなる黄金の籠手が輝き、マギへと輝きが注がれる。
世界を呪う獣の咆哮が鳴り響く。
そして僕は、隙を見逃さず、この身に備わった雷電を解き放つ。
「今だ、マキナ」
師の声に導かれるように、最大電力。全身全霊。
この日、この時のために僕のすべてはあったのだから。
雷が、世界を書き換える"靄(スチーム)”がマギを貫いて──
勝った。
そう思った。そう思ってしまった。それは、僕の生涯で二度目の慢心だった。直後、僕の体は宙を舞っていた。衝撃波。ゲオルギウスの空間破壊! 僕は、弾き飛ばされる。ローゼンクロイツ師の右半身が消し飛ぶ。
「命題は既にない。証明は終了している」
マギが哄笑する。無傷。
そんな、莫迦な。僕はお前を殺すためだけに──
「マキナ。お前は生きろ」
ローゼンクロイツ師が、半分だけの体で立ち上がり、マギに組み付く。
肉体を瞬時に、ショゴス化させて、ぐるりと、正確には“巻き付いて”いた。
一瞬、青空が見えた気がした。
それに、高らかに咲き誇る薔薇の花も。錯覚だ。
瞬きをした次の瞬間には、ローゼンクロイツ師はたちまち収縮し、マギの肉体をばらばらに引き裂いていた。自分自身を崩壊させながら。
「父さん……!」
僕は叫ぼうとするが、声が出ない。胸が潰れていた。
目前には、瞳を赫色に輝かせる魔人ゲオルギウスの姿。
彼は言った。遅い、と。
ここで死ぬのか。駄目だ。まだ、死ねない。
マギを殺すだけではなく、稼働を始めた《真・大数式》を止めなくては、地球もカダスも光の果てへ消え去ってしまうのだから。僕は、手を伸ばす。右手を。
ゲオルギウスの破壊の左手に、僕の力がどこまで通用するのか、自信はなかったが、やるしかない。
右手が砕けても左手が残る。そう、覚悟を決めた、瞬間。
視界の端にあの男の姿が見えた。
十字騎士ツァラトゥストラ。古き印(エルダーサイン)を刻んだ覆面で顔を隠した男。この最終局面にあたって、狂ったように叫びながら何かの碩学機関を弄り続けていたあの男が、「成功だ」と声を上げながら機関を起動させていた。何だ。何をしていたんだ、あの男は。《大数式》にまつわる邪悪の気配とは違う、あの機械は、何だ。この僕に把握できない機械?
「喚くな」
叫びに苛ついたのか、ゲオルギウスの破壊の手が振るわれていた。
ツァラトゥストラが砕け散る。僕の体ごと。
いや、僕は、まだ、砕けていない。誰かが──リザさん?
「きみは、生きろ。あちらへ渡ったミスター・ヴァイスハウプトを追え」
誰かが、倒れたはずの僕を抱え上げていた。
アスルさん。黒い血を、魔人に引き裂かれたリザさんの血を顔に浴びながら、僕を、碩学機関の方へと──
駄目だ、僕は、この世界を。
「きみが最後の希望だ。何ひとつ、この世界の外に出してはいけない」
アスルさんがコンソールを操作している。
僕の周囲が淡いクラッキング光を放ち始める。
駄目だ──
†††
(暗転)
†††
──目覚めた時、僕の視界には灰色があった。
見慣れたはずの灰色の空。
けれど、僕は、理解していた。
ここは違う。
違う場所だ。
違う世界だ。
地上に突き立って空を貫く、世界の何処にいても目に見えるはずの《大機関時計》の姿がない。《真・大数式》を示すクラッキング光の数式も空には浮かんでいない。ここは、そう、別の世界、なんだ。
いつか、ミスター・ヴァイスハウプトが語っていた。
別の世界。
歪みの果て。
涙が溢れた。
僕ひとりが、消えゆく世界から逃れて、ここへ……。
「おま、え、だれ、だ」
声は、聞き慣れたはずのものだった。
誰かがいる。灰色の空の下、黒い大地に倒れている誰か。僕の、すぐ傍らに。
それは、僕だった。
僕と同じ顔。
僕と同じ声。
同じ姿。
そして、少しだけ違う機体稼働音。
「僕は、マキナ……」
「は、は。何だ。じゃあ、お前は、おれ、か」
もうひとりの僕は、明確に、死につつあった。
誰かにそうされたのか、自身でそうしたのか。
分かるのは、周囲に散らばった鋼と肉は、きっと、もうひとりの僕が殺した改造人間(チューンド・ヒューマン)たちなのだろうということだけ。
「きみも、マキナ……?」
返答はなかった。
もう、二度と、何も言わないだろう。
僕は、立ち上がる。もうひとりの僕の亡骸を見つめて、埋葬すべきかどうか迷って、しばらく、じっとそうしてから、腰に巻かれた機械製の帯(ベルト)に触れて。
そして、僕は、理解する。
この機械帯(マシンベルト)が何であるのかを。
「借りていくよ」
返答はない。
僕は、機械の帯を腰に巻き付ける。
そして、歩き出す。
──空を見上げて、少し泣いて。
──それから、右手で、機械の帯に触れて。(深闇のセレファイス・了)